タカラヅカ男役「大和悠河」さんのアンオフィシャルFANサイト

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└ 所感 - 「炎にくちづけを」感想
::: 注 ::: いつものような、「始終大和悠河の美しさを讃美する文章」、とはなっていません。:::
私は総じて「作品」と言われる物につじつまを求めないので、いろんな所で酷く言われているこの作品に対して、全く違和感無かったです。
例えばクラシックでも作曲家の意図を念入りに汲み取り譜面の意味を追求する奏者もいれば、自分自身の感情と主張をもって曲の新しい解釈を臆せず示してみせる奏者もいる。どちらも正しい姿勢だと思います。でも私は、芸術家にはアイデンティティを有する別個の人間として、例え作曲家の意思に反そうとも、自分の内面を外に示して欲しいです。芸術は歪んでいても間違っていてもいい、アートが現実や真実になる必要はないんだと思っています。
確かに脚本の整合性にも問題のある、すごく不器用な作品だったと思います。
キャラクター達は皆軌道も周期も重力の中心すらも共有する事無く自分だけの宇宙をもの凄いエネルギーで走り回る。セリフも歌も「話す言葉はまるで異邦の人のよう(いばらの涙/L'Arc)」にすれ違ってばかり。場面はとびとび、ストーリが頭の中で追いつかないうちに次から次へと訴えられる別々の主張を聞いていくのは、多少疲れることかもしれません。
でもあの矛盾たっぷりの性格を与えられたキャラクター達は、だからこそ生き生きして見えました。人間の汚いところ愛しいところをコントラスト高くあわせ持ち、正しくても間違っていても自分の意思を最後まで貫いてくれる姿は、愛すべきものがあったと思います。
演出家の無理がたたって必要以上に叩かれてしまっていますが…。
何より私がこの作品を擁護できるのは、おそらく宗教に対する意見がとても素直に受け取れたからだと思います。(何と言っても悠河さんが体を張って主張していたのですからそれだけで大注目です、感情移入も他の場面の比じゃありません。)
私は聖書をよく見ます。別に興味深いから読むだけで、聖書に関する書物を読んで勉強したこともありましたが、それでも個人的解釈で聖書を読んでいます。ぱっと開いて印象的な場面だとラインひいたり印しをつけたりし、気に入った場面、共感できる言葉を何度も読むだけです。
また母親が仏教を信仰してたので、そちらの考え方も少し受け継いでいます。なので聖書を読んでいると、キリスト教と仏教、お互いの言い分の食い違いを感じることもあります。でも矛盾に感じられる部分も解釈によっては同じことになります。結局世の中に存在する宗教は人間の幸福を願ってのもの、方法や表現が違ったとしても、幸福を追求することに間違いなんてないんだ、って思うようになりました。
「宗教で差別するな」
人間として生きていきたい、人間として認めてもらいたい、人間として互いの幸せを探していきたい…
宗教に属さず人間としてまっさらな心を保ったまま生きているジプシーの言葉は素直に響きました。
あれだけ非難され差別され、なのに恨み言も言わずに死んでいくパリア。彼はストーリーを成り立たせるため演出家に殺されるわけではありません、主張の印象を強めるために仕組まれた「演出」なのです。あの場面で確実にストーリーの流れは滞りますが、3つの疑問を観客に植えつける効果がありました。
「何でパリアは死ぬの?」
今だ(宗教に限らずいろいろな見解の違いで)不当な差別や非難を受け、それで被害を被っている人がいることは、やはり事実だからです。
「何でキリスト教徒達はジプシーを殺してしまうの?」
ひとつのことを一心に信じることは決して間違いではなく、それを完遂することで起こる過ちがあったとしても、それは悪ではないからです。時代の力や人間としての悲しさが、不可避な状況を作っているだけなのです。
「何でマンリーコにはジプシーを助けられないの?」
矛盾に満ちた関係に皆疑問を感じながらも簡単に修正できない辛さを、この問題が何百年にも渡って保ち続けていることの象徴です。
ルーナ伯爵はジプシー達を憎き敵として殺しましたが、マンリーコが自分の弟だと分かると急に、彼を憎み恨み殺したことを後悔します。立場上敵には変わりありませんが、「兄弟」という理解が一瞬のうちに敵同士であった二人の溝を埋めるのです。その理解とは、血のつながった者に向ける愛情。レオノーラも愛があったからこそジプシーという身分に隔たりを感じませんでした。アズチューナもマンリーこのことを、敵の血をひくと知っていてなお「親子愛」から受け入れました。
「愛」とは大袈裟に聞こえるけれど、つまりは相手を信じることに伴う感情の全てなんだ、私はそう考えています。皆同じ人間だ、ということに気付くには、少なくとも「愛」が必要なんだって。
演出家はパンフコメントにおいて「愛ではなく敬意をもって」と主張しますが、最後のパラグラフで書き足しているよう、どんなに儚くてもその存在があればこそだと思っているのですから同じことです。少なくとも聖書の言う「隣人愛」とは決して「人間全てを好きになれ」という意味ではないし、それは彼のいうリスペクトあっての理解。神の定義だって、聖書では「言葉」としています。または「愛」そのものである、とも。神とは信じる者の心にのみ描出され得る概念なんです。いるとかいないとかの問題ではないんです。
「信じろとは言ったろう?鞭打てとは言わなかったろう?」
パリアの繰り返すこの言葉にぞくぞくしました。実直で不器用な主張。信じて認め合うこと、信じて許しあうこと。歌を歌う彼だけが信じて疑わない真理、―同じ人間なんだ、鞭打って何になる、疑って何になる?―でも誰にも届かない、まるで無駄死、でも彼は信じて疑わなかった、最後まで。
まっすぐな視線、堅く芯のある声、意味不明なくらい動じない胸・・・パリアの訴えた言葉の数々は、舞台の役者たちに対してというよりももっと漠然とした対象・・・舞台と向き合った観客すら飛び越え、世間全体、さらには矛盾を培ってきたこれまでの歴史に対して発せられた、堪え切れない怒りと悲しみであったかのよう。
あんな報われない死を演じた悠河さん。でもあの無駄死は、悠河パリアだったから「こそ」表現できたところが絶対にあると思います。彼女の、不器用にも自分を信じ続けて何事も最後までやり通そう、という生き方が、パリアという人間とリンクしていた瞬間でした。


2005/11/2