タカラヅカ男役「大和悠河」さんのアンオフィシャルFANサイト
夜はやさし「夜はやさし」について
夜はやさし[上巻] / [下巻]
とにかくどこまでも美しい作品です。情景描写に人間の心理描写に人生の苦悩の描写・・・ひとつひとつが夜の月から垂れる雫のように、儚く薄く美しい。そんな美しさのかもし出す余韻というか残り香ともいうものは凄い。今尚、私の奥深くに切れず漂い、色んな物思いを起こさせてくれる。 読み終えたあと笑顔になれるような小説でもなければ、エンターテイメント性のある小説でもありません。むしろ読後感は悪く、胃にもたれる感じ。 けれど、忘れた頃になって急にそれは来るんです。リヴィエラの湿気た空気やむんと立ち込めた花の香りや白く膨張した薄情な月の情景が、ふとどこかしらから湧き上がってきて、じれったく頭の片隅を占有する。 「夜はやさし」という小説は本当に、ほんとーに、ある時急に手に取り読みたくなる、そんな小説です。(なのに絶版だから、ふと手を伸ばし〜みたいなことが出来ないのっひどいっ) 「夜はやさし」鑑賞「偉大なるギャツビーは傑作だった、しかし夜はやさし・・・これは信仰の告白なんだ」 あおりの感じた「夜はやさし」世界の不安定さと、不安定な結果として生じる果てし無い絶望と悲劇を、これほど美しく繊細に、神経症的なまでの過敏さで感じ取り表現した作品には、未だかつて出会ったことがありません。 フィッツジェラルドはこの「夜はやさし」において、同情とも憎しみとも言えない、ある種の諦めというか悟りというかの立ち位置に立ち、物事(それは人の心であり社会の在り方であり、または全くの別物であったかもしれない)の不安定な「二面性」を、いつにも増して徹底的に書き切っているように思いました。 読んでるうちに胃がもたれて吐いてしまいそうな小説ではありますが、かと言って1930代のアメリカのように「読む価値無し」と一笑に付して捨て置く訳にも行かないような気もします。 「病的」な小説「この小説(ラストタイクーン)で私を悩ますもの・不確定に思われるものは何もありません。 スコット自身がラストタイクーンの構想を編集者に伝える書簡の中においてこう書いているよう、「夜はやさし」という小説は、その表現がかなりの誤解を招くリスクを負っていることを承知の上でなお「病的」、という言葉が当てはまるような、そんな小説です。 壊れる精神、病む夫婦関係『精神分裂病(※現在は統合失調症と呼ばれる)』 家柄も良く金持ちでかつ美女のヒロイン、ニコル。彼女は精神分裂病をわずらっていました。精神科医として彼女の治療にあたった中産階級出のディックは、美しい彼女に惹かれ、やがて二人は結婚します。 二人の間には、愛情があり、依存の関係があり、もはや切り離すことの出来ない「ひとつ」の関係が確かにありました(悠河さんも「You are me,I am you、似たもの同士、運命に選ばれて」と歌っていましたし)。けれど病気により人格破綻を示す彼女の非尋常さが次第にディックを追い詰めていきます。もともと「ひとつ」であった二人の関係は徐々に分解されていったのです。 二人のつむぐ様々な事象の二面性、彼らを取り巻く色々な現象の左右非対称性―それらに対して登場人物たちはそれぞれに怒りをあらわにし、反抗してはみるものの、しかしそれら全て人の人生であり、現実であり真実であり、恨むべきもあたるべき対象も、結局は存在しないのだという、そこはかとない失望感が、小説の根底に始終低く垂れ込めています。 「愛」の定義ヒロインが精神分裂病を患っていたという設定は、もちろんスコットの妻ゼルダから来たもの。精神を病んだ不幸の妻ゼルダに対する夫としての責任感・罪悪感という、ただその一側面のみから書かれた小説、と単純には言い切れないものの、そこには確実にスコットの夫婦関係が投影されているし、スコットがゼルダを愛した形がこの小説に現れていると私は考えています。 ディックがニコルに抱いた「愛」の定義とは、"恋愛の延長にあるもの"では決してなく、「失うことを想像するだけで吐き気がする」と表現されたほど、深く広く互いの存在を共有した結果の感情―相手の人生を負うことに対する、まるで「運命」だとでも言いたげな、『義務感』でした。 そしてそれはそのままフィッツジェラルドにとっての「愛」の定義でもあるわけです。晩年の愛人シーラに対しては、恋愛の延長にある「愛情」を持って愛したけれど、それは彼の最愛の妻ゼルダを裏切ったわけではなく、ゼルダに対しては存在を共有するもの同士としては「当然」分かち合うべき感情としての「愛情」を、生涯にわたって注ぎ続けました。 夜はやさしの中において、前者の愛情は「自分を甘やかすようなもの」と表現されます。主人公ディックは、敢えて自分を甘やかすような感情を彼自身の道徳観念から避け、モラリスティックに妻ニコルを愛し通そうとします。このようなディックの言葉が端的です。 In a way that's more important than just wanting to go on' 「ニコルと僕は一緒にいなければいけない。大切なことなんだ、そうしたいと願うよりずっと」 'Nicole mustn't suffer ― she loves me and I love her ― you understand that.' 「ニコルは苦しんじゃいけない、彼女は僕を愛し、僕も彼女を愛している、分かるだろう」 ディックがこのようにニコルを彼のモラルの中だけで愛し、結果破滅したように、スコットもゼルダを愛し転落しました。けれどそんな状況を(この作品の所々で見られるように)愚痴ることはあっても、その愛を宿命のように捉えているため真の意味で後悔などと言う感情まで思うに至らないのです。 ・・・愛することが「宿命」ですよ?こんな、美しすぎて笑っちゃうようなテーマが、笑えないくらい重く深く、人のモラルの隙間を抜け目無く見つけ出しては流れ、時間をかけ浸食していくのです。 彼のモラルの葛藤は、ヅカ劇の中でも「(ゼルダを愛することをやめれば)俺の中の大事な部分が壊れていく」と表現されていました。 「夜はやさし」というタイトルフィッツジェラルドは娘に宛てた手紙の中で「この詩に触れるたび、涙が溢れる」と書きました。以下に、フィッツジェラルドが好んだというイギリスの詩人キーツの、「Ode to a Nightingale/夜鳴鶯の賦」という詩の一節を引用します。 Away! away! for I will fly to thee, "汝の元へ飛びゆかん、詩的想像の見えざる翼を背に・・・ 文庫本をめくるとまずこの詩の一部が引用されています。しかしこの小説がスコットによって「Tender is The Night」という題を冠された意味を本当に知ることになるのは、物語を読み終えてしばらくしてから。本を閉じ普段の生活を送っていると、ふと、「夜はやさし」の匂いたつような薄い色彩が、夜明けともに降りてくる朝露のように、沁みてくるのを感じました。 ニコルとディックの出会いも、二人が愛を決意したのも、互いに互いの愛を裏切るのも夜。熱情の時期を過ぎ疲労と失望を感じ合うようになった頃、船の上で手を取り合い破滅への道を今にも選ぼうかという瞬間ニコルが初めて気付いたものも、ディックの背後に見えた夜の美しさでした。 「Already with thee!(既に君と共に)」をベースとした愛情が、あくまで気品と冷徹さと無関心さとを秘めた夜を背景としているからこそ、読者がこの小説を読んでは顔をしかめ、その香りにはむせ返り、湿った空気の中幻でも見るような思いをしているのを他所に、当の小説はと言えば何ともいえない読後感を残して、行き着くところも無く漂うんだと思います。 水気を含み香気立ち上る悲哀が、フィッツジェラルド自身の微かな溜息と共に織り込まれているこの小説には、「夜はやさし」というタイトルが本当にぴったりです。 フィッツジェラルドの「モラル」フィッツジェラルド自身「信仰の告白」と言っているように、彼のモラリスティックな部分が微かな光の粒子としてストーリー内のそこかしこに散りばめられ小説全体を彩ります。そんな彼の誠実さは全て「愛すべき者を確かに愛し通す」という部分に注がれる。 確かに「夜はやさし」は軟弱で、構成もすっきりせず、人物やイベントがごちゃごちゃしていて、ギャツビーのような傑作とはならないのかもしれない。けれど、読んだ後もどこかに引っかかってくる非常に悲しい部分、非常に美しい部分は、全て、すべて、彼の「モラル」・・・それこそ「信仰に基づく告白」が、小説を真っ直ぐに貫いているからこそだと思うんです。小説や筆者自身の軟弱さを責め切れないのは、そういう道徳観念を縋るほどに大切にしている、フィッツジェラルドの古風な人間性に、人間として読者が共感してしまうからだと思う。 もともとカトリックな素地のある彼に、離婚なんて在りえない。ディックが医師としての責務感を背負って必死にニコルに愛した姿は、そのままスコットに重なります。ニコルがディックのハンドルを奪って自殺を図る場面・・・まさか本当にスコットとゼルダの間でそんな恐ろしいことが起こっていたなんて、読んでいた時は知りもしませんでしたが。 2005/8/17 |
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